「本書の大部分は、1940年から42年にかけて書かれた。太平洋戦争前夜から日本の戦勝が喧伝されるにいたる間の狂濤の時流のなかで、歴史家として、思索家として、かつ人間精神の批評家として、みずからの精神の自由を確保する園を耕しつつ、冴えた眼で思想と人間のかかわりあう現場を精査し、声低く語り続けたことばは、今日、あらためて深い思いひびきをもつ。」
生まれは1896年。幼少時をシアトルにすごし、のちにフランス哲学を主に研究。この時代には、雑誌編集者と大学講師をかねていた。これを書いていたのは40代半ば。この年齢にまず驚愕することになる。すでに治安維持法と思想警察があり、2.26事件以降に軍部が政権をもって、戦時体制に移行しており、結社・思想・良心の自由はなく、上からの団体統制によってどの部署も官僚機構の下に大同団結が行われていた時代。ここにおいて、どのように思想の襟を正していくかという深刻な葛藤にある。
彼はガリレイとデカルト、ソクラテスを例にして、体制が思想を圧迫しようとしてしているとき、どのような戦略を思想家は取れるかと問う。そのとき、現れるのは、
「隠遁するか、討死するか、でなけれななんらかの形のコンフォルミスムの道に歩みいるか−−この三つの途しかのこされていません。そしていずれにしても、少なくとも表面的には哲学の貧困時代、もっと悪くすると、哲学の空位時代が到来しかねないのであります」
ということ。最後の道は、反語(イロニー)。自己を伝達することなく、自己を伝達する。隠れながら顕れる。顕れながら隠れる。そのようなイロニーの書としてデカルトの著作がある。本来彼は自然学の大作を書きたかったが、それを書くことはアリストテレス主義とカソリックに抵触して、罪科に問われること必定であった。そこで最初に「方法序説」で試射する。それが問題になりそうだとなると、スコラ学(アリストテレス主義とカソリックの方法)で「哲学原理」「省察」を書く。彼の後退は戦略であって、スコラ学の方法で書くことによって当局の疑惑をそらすが、書かれた内容がそのまま彼らの足元を崩すことになる(その結果が出るのは、デカルトの死後のことであったが)。そのようなイロニーの戦略を生きたのがデカルトであり、ガリレイ。こういう指摘がそのまま著者の書いたものに顕れるなあ。フランスの中華思想の虚妄を指摘しながら、そこに当時の日本のありかたがいぶりだされてくるあたりがこの戦略の典型例。あるいは鶏を飼おうと四苦八苦しながら、そこに浮かび上がる無思想の政策とか官僚の縄張り争いとか関係者の内容空疎な放言をうかびあがらせるところも。
いくつか。*1
・自分の思想にあわせて歴史の事例を勝手に取り出し、歌を歌うことを「歴史の取引」ということにする。そういう輩が輩出していた(今でもたくさんいる)。そういうのは文学と名乗るべきで、科学を僭称してはならない。
・人間に行動を起こさせる言葉がある。対置されるのは事物を説明し知識にする言葉。前者には呪術的な手段に使われる。後者を弾劾する言葉はたいてい、後者から生まれるのではなく、前者に由来する。
・社会の方向付けを行いたいスローガンを実行するとき、たいていは形式遵守になる。アクションが費用対効果や成果の範囲などにあっているかなどを考慮することなく、たんに形式(たとえば仕草や規律など)を守ることが最優先にされる。そのとき、小集団間の矛盾を解消する動きは行われず、たんに声の大きいほうが勝ちあるいは誹謗したほうが勝ちということになる。損をするのは、一番下の集団構成員。
・天皇制の歴史は、それを利用してきたものの歴史。権威の尊厳に最も近いものが、もっとも不逞で冒涜的。
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中村禎里「日本のルイセンコ論争」(みすず書房) 1950年代にニセ学問が日本の科学者を席巻していた。党派的なイデオロギー談義で学問的な批判が抑圧された。 - odd_hatchの読書ノート
マーティン・ガードナー「奇妙な論理」(現代教養文庫) 21世紀のニセ医療、ニセ健康療法の起源は20世紀前半からあった。 - odd_hatchの読書ノート
*1:タイトルの「中央文庫」を「中公文庫」に修正。恥ずかしいミスで、ごめんなさい。2011/10/15