odd_hatchの読書ノート

エントリーは2400を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2020/10/13

小田実「世直しの倫理と論理 下」(岩波新書)

 つづいて下巻へ。

「しくみ」のなかの人間・人間のなかの「しくみ」 ・・・ 「しくみ」を無数のひとりの人々がつくると、しくみはそれ自体が個々の人間の意図とは別の動きをするようになる。人間を取り込むことと締め出すこと、そして「しくみ」の論理と倫理をこの<私>に押し付けて、<私>以外の人間を抽象化してしまう(想像力となくすとか現場をなくすとか)。典型例は絶滅収容所に軍隊に革命組織など。ここでは取り込まれたり締め出されたりした人は「いのち」「しごと」「あそび」を失って、生きるができなくなってしまう。それは「しくみ」を運営したりまとめたりしているほうもそう。看守とか将官とか専従革命家とか。そういう本末転倒にならないようにするには、「しくみ」を重大視しないこと(観念に囚われないこと)と、根拠地に価値を持たないこと。ゲリラ、遊撃戦で動き回る(「しくみ」を転々とすることも含まれる)のが大事。
むくろの考察 ・・・ 「しくみ」から外れるのはまず死んだとき。これはとても困った事態で、国家も会社もどうにかして「しくみ」に収めようとする。なので、国家に抗するとき、もっともダメージになるのはむくろになること(ダイインとかシットインとかハンガーストライキとか)。でもしくみの側も面倒な死体もしくみに取り込もうとする。その一方で、「しくみ」から排除して知らん顔する(公害被害者、原爆被爆者、ハンセン子病患者、在日朝鮮人・中国人、などなど)。「棄民」。彼らの運動は「むくろ」をしくみにつきつけるものだった。
「えらいさん」「小さな人間」「タダの人」 ・・・ 「しくみ」のつくるピラミッドには、えらいさんと小さな人間が生まれる。ここで小さな人間は、しくみの一部であることで強権を執行できる権限を持ってしまう。例は、警官や機動隊員、収容所の職員など(今なら生活保護の担当職員とか)。彼らは名前を持たないのに、ひとびとの権利を制限してしまう。もちろん彼は家族の中では職場のなかではよい人であろうが、しくみのピラミッドを背負うといきなりえらいさんになる。その入れ替わり、無名性の使い分けで抑圧者として人々(ただの人)の前にあらわれる。これは人間の平等、基本的人権からしておかしい。なので、われわれは「強権に徒党を組んで強訴する」「自分の持っている特権を使ってしくみに立ち向かう」ことを行おう。階級を存在ではなく運動でとらえよう、何であるかではなく何をしているかを評価基準にしよう。そうすると、運動のただなかでは何であるか(職業とか技能とか所属とか)は無意味で、何をしているか(抑圧者としてふるまうのか、強権に抗しているのか、主張を人々につ和えようとしているのか)が意味あること。ここはレイシズムのデモとそのカウンターとデモを警備する人で考えるとわかりやすい。
平等と自由 ・・・ 「しくみ」のピラミッドは平等をなくして差別や区別をつくる。その差別や区別は「しくみ」の都合によるのであって、「しくみ」に対する「働き」で決まる。それは人間の都合を無視したものである。であれば、給与とか社会保障とかを「しくみ」とは別に作って、「しくみ」に要求するようにしてはどうか(田中角栄社会民主主義の前の時代で、健康保険以外の社会保障は極めて脆弱なころ。著者が見逃していたのは、「しくみ」はインサイダーに手厚い社会保障をしていたこと。年功序列や勤務期間に応じた給与体系とか社宅、冠婚葬祭援助など。まあ、大企業だけで、中小企業や自営業には無縁だったが)。当時の社会運動は政治やピラミッドのしくみには抗していたが、経済のしくみ(賃金とか社会保障とか)にはまったく抵抗していなかった。あと、人間の都合からいうと、自分に関係ないことで結果や責任を問われていた(奴隷とか封建制とか隣組とか)が、それが無くなるのが人間の「進歩」。自分のことは自分で決めるという自由(他人に迷惑をかけない限りにおいて)を執行すること、それを抑圧するしくみや人に抗するは重要。
「身銭を切る」ことから ・・・ 世直しをするのは書斎や書物の中ではなく、傍観者として観察することでもなく、身体と財産を現場で使うことだ。「身銭」というが、金銭のことだけではなく、身体と思想も含まれる。それはこの<私>のもつ自由と特権を使うことである。しくみの中にいると、「身銭」を使って人間の都合で考えるのではなく、しくみの都合と利益で考えていって。無数の一人の人間から離れていく。それは会社や組合だけではなく、「革命党」「抵抗運動体」の場合でも同様。
さて、どうするか ・・・ 三つの原則。自分のしたいこと、できることをやる。言い出しっぺが率先してことを行う。他人のすることにとやかく文句をつけない。で、運動は自分で始める、一人で始める。多数の集まった運動でも、それは組織でなかく、無数のひとりの人間が集まったもの。無数の他人に呼びかける言葉をつくろう、考えよう。
三つの提案 ・・・ 自分の歴史をつくろう。そこでみえた歴史と世界のひろがりから、無数のひとりの人間のいる地図をつくろう(それが「地図をつくる旅」文春文庫)。チョットヤッテミヨウヤナイカと気軽に体を動かそう。


 できるだけエッセンスだけにしぼったつもりでまとめてみた。この人の文体はこのころから錯綜してきて(「さて、どうするか」によると生身の人間のあり様の描写と他人への呼びかけのために文体をかえたとのこと)、一部を抜き出すと、著者の謂いたいことがすっぽり抜け落ちてしまいかねない。そのような複雑で多様な文体なので、要約するのは意味がないかもしれないが、この本が入手しずらいとなると、すこしは役に立つかもしれない。
 というのも、組織の運動は組合のものも党派のものも、人々に訴えかけ、人々を集める力を失ってきているから、そのかわりに、無数のひとりの人間が集まる運動が起きている。なるほど、ネットで呼びかけられる運動(抗議や集会、カウンターなど)は一人の人間が無数のひとりの人間に向かって呼びかけられるものだ。そこにいるのは同じ目的をもった人であることはわかるが、名前を知らないし面識はなく、運動が終われば挨拶もなく別れる。でも、次週や次回にはあつまるわけで(とはいえ数百人程度の集まりでも、おそらく二度会うことなどない)、そこは「さて、どうするか」にある運動の仕方そのものになるだろう。そういう点では、ようやくこの本の主張が現実になりつつあるのだろう。この本だといろいろ脱線しながら丁寧に説明していることが、今では端的に書かれるようになった。まあ、やっている人たちはこの本を読んでいた/いるとはとうてい思えず、それはそういうものだ。おっさんとしては、うれしく思うだけだ。まあ、運動のあり方として、長年やっていくうちに「しくみ」への同化や一体化が起きてくる可能性はあるわけ。そうなったら、ひとりの人間としては別の運動をつくればよいだけか。気軽に、重くしないで。
(2013年に書いた記事なので、2015年の現状に合わないところがありますが、そのままにします。)