odd_hatchの読書ノート

エントリーは3400を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2025/9/26

アンリ・ベルクソン「創造的進化」(KINDLE版) 人間はエラン・ヴィタルの進化にあるので、創造と知性のじゃまになる肉体を捨てて純粋思念体になろう!

 進化論の本としては高名なベルクソン(1859-1941)を読んだことがなかった。あるブログで、ラブジョイが彼をコテンパンに批判しているのを知った。そこで読む。

 なんですか、これは。ヘッケルも相当なトンデモと思ったが、ベルクソンの「創造的進化」はもっとぐちゃぐちゃで、昔から言われてきたことを寄せ集めただけじゃないか。出版社は進化の新しい見方を云々といっているが、そんなことはぜんぜんない。むしろダーウィニズムが棄却した古い考えを新しいかのように提出しているだけ。()は俺の突っ込み。

 ベルクソンの「創造的進化」は分厚くていろんなことを言っている。グダグダと同じことを繰り返す。話題が直ぐそれる。曖昧で朦朧としている。言っていることを抽出すると、こんな感じ。

・生命は空間のどこかから流出してくる〈何か〉なんだよ。それをエラン・ヴィタル(生の勢(はず)み)といおう。流出は止むことがないので、生命はどんどん進化発達していくんだよ。
ネオプラトニズムですね。ショーペンハウアーの「生への意志」やラマルク説の主体性の進化論にも近い。)

・生命の(現時点の)最高形態は人間。人間は意識や知性を持っているから、他の動物と区別される。動物は本能を持っているから植物と区別される。植物はエラン・ヴィタルの流出の現れだから無機物と区別される。人間>動物>植物>無機物と階梯とヒエラルキーがあるんだよ。この壁は乗り越えがたい。でもこうした宇宙的力を受けている生命は上等下等に関係なくつながっているし、太陽系全体ともつながっているのだよ。生命は孤独ではない!
(この生物界の区分とヒエラルキーは古代からある「存在の大いなる連鎖」のいいかえ。昔からこの鎖は一本であるとされてきたが、ベルクソンは多系統であると主張している。多系統進化の主張は1809年のラマルク「動物哲学」の方が先。)
(「存在の大いなる連鎖」を評価する人がいますが、これって西洋中世が普遍史(ユニバーサル・ヒストリー)」を作る際に、聖書に基づいて他の生命より人間が優秀であることを主張するためにつくったものですから。完全である神が最上位、そこから不死性が脱落したのが人間、さらに知性が脱落したのが哺乳類……以下、いろんなものが脱落して何も特性がなくなったのが無機物。こういうのが「存在の大いなる連鎖」です。聖書に書かれた創世神話を説明するのに都合がよい考え。ラブジョイによると古代ギリシャからあるそう。12世紀ルネサンスアリストテレスラテン語訳されたころから普遍史が書かれだすので、もとはアリストテレスなのかも。中世から近世までの西洋の学問を縛り付ける考えでした。「存在の大いなる連鎖」は啓蒙主義時代に否定された。ベルクソンが20世紀に持ち出すのは啓蒙主義の否定で、科学のキリスト教化ですよお。)

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・空虚や無のことを考えてみよう。それは物質がないという意味であるだけ。でも空虚や無は創造の源泉なんだよ。というのはエラン・ヴィタルが流出してくるのはそこだから。人間の認識は肉体の制約を受けているので、物質のことしかわからない。物質が観測・認識できない〈何か〉が充満しているんだよ。
(これは古代ギリシャからある「真空嫌悪」「充満」の思想の言いかえ。17世紀初頭のパスカルの真空の発見から科学では宇宙は真空という考えに移っていった。19世紀末に光の速度が有限なのがわかり、光の伝搬を説明するために宇宙空間にはエーテルが充満しているという説が復活した。本書にも登場。ついでにいうと埴谷雄高の「死霊」に出てくる「虚体」も同じ。その後アインシュタインらによって時間と空間の説明が変わり、宇宙が充満しているという考えは完全に棄却された(はず。21世紀のダークマターダークエネルギーは「充満の原理」とは無縁だろう))

・エラン・ヴィタルは流出し続けるから、それ自体が持続している。時間とはエラン・ヴィタルの「純粋持続」だよ。
ベルクソンは「すべての実在は、まるで絨毯の上にひろがるかのように無の上にひろがっている。まず無があり、そこに存在が付加されたのだ、と。(略)したがって無は永遠にその何かに先行していたのでなければならない。」という。これってジャンケレヴィチの考えじゃん。下を読んだときは知らなかったが、ジャンケレヴィチはベルクソンのお弟子さん筋らしい。)
ウラジミール・ジャンケレヴィッチ「音楽と筆舌に尽くせないもの」(国文社)

・生成した生命の進化は無目的。内蔵された機械のように定められた機能を反復するだけではない。「生命の原理」に基づいて、ある方向にむかっているんだよ。ある方向ははっきりしないけど、創造したり知性を高めていったりしている。

・ときに物質=無機物は進化・発展のじゃまをしている。意識、精神、知性を持っていないから、進化しないんだ。なので人間は物質の桎梏から逃れて精神だけになろう。それが進化の行く先。
(「充満の原理」「大いなる存在の連鎖」などに示される西洋の生命観は、意識なき無機物に霊気や生気が吹き込まれて生命になり、大きな目標に向かうというもの。ベルクソンはその流れに乗っているが、無機物や物質を忌避・嫌悪します。)
(アーサー・O・ラヴジョイ「存在の大いなる連鎖」を参照すると、物質が進化のじゃまをするというより、物質そのものが持つ本性が生命の本性と相いれないので、進化を阻害する、とベルクソンは考えたのだと考えたい。)

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(このぶっとんだベルクソンの主張はアーサー・C・クラークが「2001年宇宙の旅」「都市と星」「幼年期の終わり」に書いた生物進化の果てに純粋思念体に至る考えと想えばいいよ。というか、クラークがベルクソンの「創造的進化」をビジュアルイメージにしたみたい。)

・「私たちの観点に立って見ると、生命は全体として、ある点から広まり、ほぼ全周で停止してその場で振動に変わる一つの巨大な波のように見える。」 おお、ニューサイエンスやオカルトがいう生命同士が感応する「波」「波動」はベルクソン由来でしたか。
(正確にはアリストテレス-プトレマイオス由来です。天空の物体は円運動をしているので、振動しているとみなせる。振動する物体から波(バイヴレーション)が立っていくのです。)

 

 ざっとこんな感じ。書いてあるものからするとベルクソンダーウィニズムを誤解しているような。進化というアイデアと20世紀初頭までの最新科学の知見を使って、神が存在しかつ進化が起こる形而上学を作ろうとしたようだ。それなりに科学の知見を集めているが、自分の考えに当てはまる事例を恣意的に利用している。生物(とくに哺乳類)の行動を自然界全体に無理やり当てはめようとする。論理で説明できないところは、レトリックや比喩でごまかす。キチンと論理展開できないので、同じような話を繰り返す。類推したことが根拠なく実証されたといいだす。20世紀の科学がやってはいけないこととした(過度な一般化、擬人化、特別な事例の普遍化、アナロジーなど)のを皆やっている。
 主張は曖昧朦朧としているし、話題はすぐにすり替えられるし、言葉の定義に無頓着だし、こう思うんだけどが次の節には確証されたことになっているし。ショーペンハウアーがニセ学問といった特長をほぼ備えている。
 ショウペンハウエル「読書について」(岩波文庫)
 書かれた1907年というと、相対性理論量子力学、分子世物学はない。宇宙膨張論もない。20世紀のさまざまな科学の革命より前に書かれたのに注意。当時は生物学と哲学がほとんど密接していた。科学で説明できないことを哲学で説明しようとした。なので、本書のようニセ物学は神秘主義ホーリズム、カルトなナショナリズムと結びついていた。また科学の説明に、知性・悟性・創造などの科学用語でないものを使う。その言葉が科学と哲学を結びつける。
ベルクソンは自然、精神などを多用するが、日常用語とは意味が異なる。自然は大地や樹木や生物などの景観ではなく、〈何か〉を生成噴出機能を持っている場所。精神は霊魂と同意義。精神を持つというのは、肉体に霊が備わっているということを指す。とりあえず気づいたのはこれら。)
ベルクソンエントロピーの法則があるのに宇宙が定常状態にあるのを説明しようとする。つまり熱い太陽と平熱の地球と絶対零度にちかい宇宙空間がある。エントロピーの法則が成り立つなら、宇宙はもっと一様に熱い空間になるはずではないか。そうなっていないのは、生命は逆方向のエントロピーを作り出すからと主張する。おおシュレディンガーの「生命とは何か」と同じではないか。このころ宇宙はずっと狭く年も若いと考えられていた。サイズが変わらない定常状態にあると考えられていた。なので太陽の熱放射があるにもかかわらず、人間がゆだってしまうような高温にならないことを説明できなかった。そこで、こんなアドホックなことをいいだす。シュレディンガーも同じ。宇宙が膨張していることが確認された現在では、逆エントロピーも負のエントロピーも不要です。)
 エルヴィン・シュレーディンガー「生命とは何か」(岩波文庫) 1944年
 ベルクソンの「創造的進化」は目新しさを装っているが、中世キリスト教思想とルネサンス期の新プラトン主義(ラヴジョイによるとロマン主義哲学も)を復古したものでした。同時代の科学知見を集めて、自分のイデオロギーに利用している。こういうのはよくある。エンゲルス「自然弁証法」、ヘッケル「宇宙の謎」「生命の不可思議」など。本書もこれらと同じ位置付けでいい。20世紀の終わりには、意図的に科学に装った説明を使って哲学を作ったことをやって大論争と批判が起きたが(顛末が「知の欺瞞」。未読)、ベルクソンにはそういう人はいないのかな。本書を読む限り、この人の時間論など検討する価値はなさそうなんだが。

 

 ラヴジョイのベルクソン批判講演はこれ。先に読んだので、上の感想は影響されているかも。
ベルクソンロマン主義的進化主義」 (1913)

cruel.hatenablog.com


 ここには「創造的進化」のとてもよいまとめと批判が書いてあった。長くなるけど引用します。

ベルクソンによる進化を「創造的」なものとする発想、つまり本当に新しい現実が耐えず生まれているプロセス、宇宙が単に改編され再編されるにとどまらず、新鮮で空前の予想もつかない生物や新しい行動能力が追加されて補われ、豊かにされているプロセスのことです。そうした新しいものは、宇宙史におけるそれ以前のステージに見られるどんな「自然法則」なるものからも演繹できないそうです。」

 

ベルクソン哲学全体というのは (略)、お互いに対立ばかりしている要素の、単なる出来の悪い寄せ集めにとどまらず、きわめて不安定な複合体です」

 

「持続の「不可分性」テーゼは、進化プロセスの「創造性」ドクトリンにつながるどころか、明らかにそのドクトリンと矛盾するものなのです。(略)ベルクソンは絶えず「時間」だの「持続」だのといった実名詞を使いますが、彼がこうした言葉に最もしばしばあてはめる属性というのは、まさに形而上学者たちが永遠を定義する手段として使う属性なのです。」

 

「彼はその理論に系統発生説を組み入れます。これによると、生命体の変化はある決まった方向を一貫して採るので、いったん登場した新しい性質は、それ自体として増えて強化される傾向を持つというのです。」

 

ベルクソン哲学というのは、(略)基本的にはこのロマン主義哲学運動のリバイバルなのです。宇宙の能動主義または自発主義的な理論とでも呼ぶべきものの、初の典型的かつ根深い影響力を持つ表現が見られるのは、このロマン主義者たち(シェリングショーペンハウアー)においてです。」

 

「つまりベルクソンの主要な重要性は、現代思想の歴史との関連でみると次の通りです。一世紀にわたる科学進歩の後で、そして自然に関する進化論哲学と機械主義哲学の連合の介入の後で、彼はロマン主義的、能動主義的、急進的進化主義の仮説を真面目な哲学的ドクトリンとして復興させたのです。そして再び進化論と機械論の概念が自然な味方同士ではなく、むしろモノの性質に関する解釈における優位性をめぐる相容れないライバルなのだと固執し、その優位性は本当の進化の観念に与えられるべきだと宣言したのです。」

 

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