odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

レーモン・クノー「イカロスの飛行」(ちくま文庫) 物語と作者の壁を壊したこれは小説?それとも戯曲、コント、映画の台本?

 レーモン・クノーは映画ファンには「地下鉄のザジ」の原作者として(中公文庫に翻訳あり)、アンサイクロペディアファンには「文体演習」で有名な作家。1903年に生まれて、奇想天外な小説や詩や戯曲を書き、1976年没。フランスにはこういう洒脱な人がときどき現れる。といって、あげられるのはエリック・サティジャック・プレヴェールジャン・コクトーとこの人だけなのだが。

 さて、「イカロスの飛行」は1968年の著者最後の小説。小説? 戯曲のようでもあるし(解説の清水邦夫は上演の可能性を示唆している)、コントのようでもあるし、映画の台本のようでもあるし、そのどれでもないようだし。中身はというと、まず、イカロスが小説の中に放りこまれる。というか、作者から逃げ出してしまう。イカロスはLN(エレーヌと読むのだって)というおにゃのこと出会い、アブサントをしこたまのみ、一方作者ユベールは探偵モルコルを雇ってイカロスを追いかける。探偵はイカロスを居酒屋で見逃すし(なにしろ身長を1㎝間違えるわ、別人の名前で創作するわ、といいかげん)、作者は小説が書けずに居酒屋に繰り出すわ、とドタバタが続く。そこに別の小説家も現れるし、その小説から逃げ出した作中人物もいるしで、わけがわからない。フランス語で「飛行」は「盗難」の意味をもつのであるらしく、ある意味LNがイカロスを盗み出して、作者から逃げ出すというとであるのかもしれない。もちろんラストシーンはイカロス神話を再現するものである。そこになにかの象徴をみてもよいのかな。
 文学理論は「文学部只野教授」「朝のガスパール」くらいでしか知らないのでいい加減にかくと、1.作中人物が創作した作中人物、2.作中人物、(3.作者)、(4.読者)の4つのレベルがある。たいていは1と2のレベルは厳密に区別されていて、混乱を起こすことはない。ここを意図的に混乱させたのが、竹本健治「匣の中の失楽」(講談社文庫)笠井潔「天啓の宴」(双葉文庫)など。クノーの実験は1と2の境を取っ払ったのだ、といいたいところだが、1のレベルと2のレベルは読者の側からはあんまり差異がないのではないかね。ある種の暗黙の約束事を読者が守っていて、それが強固な時には驚きにはなるかも。
 というのも、21世紀の読者にとっては、ここらのレベルが混乱したり侵犯されたりするのは特に珍しいことではないから。ゴダールが「気狂いピエロ(ママ)」でアンナ・カリーナにカメラをむかせて聴衆に語りかけたり、アニメ「新世紀エヴァンゲリオン まごころを君に」で映画の中に映画を見ている観客を挿入したり。マンガの中にカルカチュアライズされた作者がキャラクターとして登場したり(手塚治虫以来類例多数)、マンガのコマとコマの間にストーリーと全然関係ない作者の落書きやつぶやきがあったり。舞台に観客をあげてディスカッションしたり、観客を挑発して劇の中にハプニングを生じさせたり。こんな具合にレベルを混乱させたり解体させる仕掛けは多数あって、それにとてもなじんでしまった。
 この種のレベルの混乱は探偵小説に多くあって、たいていは書き手や視点の人称に仕掛けを施す。それくらいしかできないのは、文字が一列に並んでいて、同時に複数の文章を読むことができない文字文学の限界になるのかなあ。
 なので、クノーの実験は初出時のときのような効果が薄れてしまった。むしろ。19世紀末を描いたレトロ趣味を楽しむほうがよい。自転車や自動車の普及、エッフェル塔の建設、ヴィドックやルコックなど探偵小説のブーム、イエロージャーナリズム、酒屋談義、学生の決闘(上山安敏「世紀末ドイツの若者」講談社学術文庫によると学生同士の決闘が19世紀末に大流行したとのこと)、などなど。