以前ピグミーチンパンジーと呼ばれていた類人猿は今ボノボと呼ばれる。体格はチンパンジーに似ているが、詳細にみると違いがあるし、行動がとても異なる。この類人猿がほとんど知られていないのは、生息域はコンゴ(旧ザイール)の一部に限られ、秘境にあるので観察がとても大変で、個体数も少なく、今では捕獲も商取引も禁止されているため。しかもコンゴは1980年代から2000年直前まで軍政になっていて、入国制限があり、国内の飢餓のため人間がボノボを捕食していたのだった。現在の政治体制に移行してからは、研究者が戻るようになり、現地の人といっしょに継続的な観察が続けられている。
しかしグローバル化はコンゴにも届き、森林の伐採と農地開発などが進められ、人口が増えた。そのためにボノボの生息域は縮小し、個体数も密漁などで減っている。そこで保全(コンサ―ベーション)が行われているが、著者の見方では国際NPOもコンゴの官庁も地元の人も「保全」「人道主義」「市場経済」のお題目で思考停止になりやすいという。組織のうしろだてをもたず(国際NGOなどの客員研究員なので)、あるいは余所者であるので、決済や決定の権限がない著者からは、組織のやりかたがもどかしい。とはいえ、具体的な解決案はなく、迷わざるを得ない。このようなためらいや疑いは、保全や国際協力の資料からは出てこないものなので貴重。
著者はボノボの観察を20年近く続けている。夜明け前に起きて、森の中でボノボの残した痕跡を見つけて群れの情報を推測し、数時間ジャングルの中を追いかけ、彼らを発見したらゆっくりと近づく。森の中では数時間をボノボの観察にあてる。まずは個体が識別できるようにする。区別できるようになるのに1年はかかるという。区別できるようになると、夢に彼らの顔がでてくる。いつ行動するか予測できないから観察中は考え事はダメ。観察して気づいたことをメモし、ボノボが食べている果物を味見し、夕暮れまでに帰る。帰ると村人が様々な相談と問題を持ち込み、聞いて解決する。ときに彼らといっしょに政府交渉に行くこともある。服の中に忍び込んだミツバチを刺激しないように注意しながら、メモを整理する。そのころには日暮れて真っ暗になり、翌朝未明の起床に備える。タフでなければやっていけない。
観察のやりかたもこの数十年で劇的に変わる。博物学時代の個体採集は自然浸食的であると批難されるようになり、餌付けをするようになったが、人に慣れ自力で食料採集をしなくなった群れの行動が自然であるか疑問がでるようになり(しかも餌付けされた群れが観察隊撤収後生き延びられるか不安視される)、いまでは人づけ(人間がかれらの場所にいることに慣れさせて自然にふるまうのをまつ)になった。それでも人慣れが良いかの議論があり、著者は観察中は存在を隠すようにしている。姿を見せないし、触れないし、声をかけない。そうすると著者はボノボと共感(エンパシー)を感じることがあるし、疎外されているとも感じるし、権力をふるっていると感じることもあるという。彼等との関係は一意には決まらない。観察することが自省になる。
(たとえば、家畜の牛が出産するとき、獣医師が観察していると、牝牛は緊張して出産しないという。人に慣れている家畜ですらこうであるとすると、人づけされた野生動物の行動が「自然」であるかどうか。以上は俺の思い付き。書いたこと以上に、研究者は真剣にこのことを考えているはずです。)
(個体識別による異種の認識と観察は、アダム・スミスのいう「利害関係のない観察者」を生むのか。人の場合、男性は中立的な観察者となれると考え自分のふるまいに自省は生じない。一方、女性は「見られる」という感覚があることで「上品」なふるまいをするようになる。社会的な関係で権力に勾配があるとき、「客観的」は強者のマジョリティにしかできず、そのことを観察者は意識しない。)
(この観察するものと観察されるものの関係は、ほかの場合でも参考になりそうだ。観察する<私>と言葉を共通にしないものに対する態度や姿勢を考えなければならないし、それが相手にどのように影響しているかを測り修正しなければならない。それは動物にかぎるわけではなく、エスニックやセクシャルのマイノリティあるいは障碍者との間でも起こる。観察する人間は強圧的で暴力を振るえる強い立場であるのだ。)
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(このような観察問題は、実験室や飼育・育種室にいる研究者には多分起こらない。他者や異種の社会とかかわることがないからだろう。)
で、本書の大部分を占めるボノボの社会行動であるが、著者は安易に答えを出さない。モデル化しない。単純化しない。チンパンジーとは異なる行動がみられるとはいえ、それはボノボ全体にみられるとも、一時的なものであるとも断定しない。なにしろボノボの観察者(のうち論文を書けるもの)は全世界に数十人くらい(俺の推測)で、コンゴの内戦で観察できない時期があり、複数の群れの異動や社会構造を把握しているわけではない。となると、巷間でいわれるボノボの特長もそういっていいといえず、どれもが「らしい」になる。研究者の謙虚さ。
というわけで、研究方法にフォーカスした読書になったので、ボノボのことはほとんど記憶に残らなかった。
著者インタビュー
さて本書は著者から献呈された。ボノボの前にはチンパンジーの長期観察をしていて、この30年はほぼ日本にいないので、自分も久しく会っていない。これを読んで息災であることを知り、不在の間に何をしていたかの一端を知ることになった。研究者の真摯さといっしょに詩を愛好するロマンティストの面があることに驚いた。