odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

アーネスト・ヘミングウェイ「老人と海」(新潮文庫) 資本主義社会の英雄は聖杯探索に失敗し、村は衰退するしかない。

 カリブ海の島にある漁村。WW2のころは活気があったが、大資本の沿岸漁業がでるようになって、小舟による漁はさびれるばかり。若者は島を出ていき、中年以上の漁師しか残っていない。そこにいる老人は84日の不漁に出会っていた。あまりの運のなさに、手伝いの少年も船に乗せることができなくなる。老人の妻はすでに死んでいて、おそらく子どもらは島にいない。孤独で静謐な生活。85日目の漁にでたとき、「それ」が来た。以後3日間の魚との格闘。しとめることができたとき、海に漂う魚の血は、飢えたサメを呼び寄せた・・・
 1952年の小説は1958年にジョン・スタージェス監督によって映画化された。中学生のときのテレビ放映でみたとき、少年に感情移入してスペンサー・トレイシーの老人を見上げるように見たと記憶する。太陽の下のカリブ海での3日間の格闘は鮮烈な印象を残した。

f:id:odd_hatch:20211022085525p:plain  老人と海 (The Old Man and the Sea・米・1958)> | こんな映画見ました

 さてほぼ半世紀を経ての再読の感想は困惑。もはや少年の視点にはたてず、老人の側から読む。
 この3日間の苦闘は資本主義や商品経済の視点からすると、なんの生産も無かった。むしろ老人のわずかな資産をなくすことでもあった。老人は魚との格闘で何かを学んだり思いだしたりすることはなかった。成果をあげずに戻って、ふたたび不漁の暮らしに戻るのであった。およそ近代の小説にあるようなテーマがここにはないのだ。そうすると、老人の3日間は自己発見や自己回復の機会だったのではなく、苦行とみなすべきか。でも、老人はもはや苦行しても何も変わらない。苦は仕事につきものなのであって、それは特別な体験であるということはない。それに老人は心身二元論の人なので、身体の苦痛を心の不安と切り離してしまえるのだ。そこに男の剛毅みたいなことを見ることも可能だろうが、偏屈や頑固や辛抱強さは老人の一般的な属性なので、彼個人の特長になるわけではない。
 参考になるのは1960年の「危険な夏」だろう。スペインの人気闘牛士のひと夏を追いかけたドキュメンタリー。彼ら闘牛士はスペイン中を巡業し、行き先々で闘牛の妙技を見せる。牛は必ず死に、闘牛士は牛の死に意味を考えない。同様に、老人も魚の生死の意味を考えない。自分の存在根拠を魚に問いかけることもしない。メルヴィル「白鯨」で白鯨が存在の意味を投げかける対象であるのとは正反対。老人は魚つりをルーティンとしてやっていた。彼は必ず魚に勝つ。魚は必ず釣りあげられ、市場で現金に換金される。そのような自然から収奪するものとしてしか価値を持たない。老人は魚をそのようにみている。老人が大(ジョー)ディマジオや腕相撲のことを思い出し、自分の釣りと重ね合わせるのは、闘牛と同じようなスポーツであるのだ。
(2021年10月のNHK「100分de名著」で取り上げられたとき、評論家は老人が魚に持つ共感や同士関係などにフォーカスしていた。なるほど。なんだけど、俺は他人や他者に共感エンパシーを持つことはめったにないから、評論家のようには読めなかった。サメに襲われても体力が尽きるまで格闘することに意義を見出そうとしていたが、身体の苦行や努力それ自身にはさほど価値を感じないので、老人の職業意識は認めても、「あきらめないこと」自体を評価する気持ちにはなれなかった。評者はカジキとの格闘を一回限りの特別なできごとと見ていて、その体験の独自性を強調しているようだが、そこは俺の読みとは違う。この三日間は過去に体験してきたことの反復なのだ。ラストシーンでライオンの夢から覚めたら老人はまた漁にでかける。そのときには巨大な魚を釣り損ねたことは気にしていないし、特別なできごととも思っていない。)
(なお、老人がジョー・ディマジオのファンであるのは、ディマジオがイタリア系であり、キューバ人からすると共感を持ちやすいという説明があった。ここは同意。同時代のニューヨーク・マジソン・スクエア・ガーデンで最も人気があったプロレスラー、アントニオ・ロッカもイタリア系。移民の国アメリカではマイノリティの貧乏人は同じルーツのヒーローを応援し、ラジオや新聞などでカリブ海諸国の人々も同じ思いを持っていたのだ。しかし白系アメリカ人はエスニックマイノリティに興味を持たない。ラストシーンでアメリカ人観光客があれは何と問い、ウェイターが「カジキ」とスペイン語で言ったのを「サメが・・・」と英語で言い直す。観光客は勘違い。ここにキューバに関心を持たないアメリカ人への批判や嫌悪があると指摘していた。ここは見逃したので、よい指摘でした。)

 ジョー・ディマジオ。本作出版の後、マリリン・モンローと結婚。新婚旅行で来日していた。

f:id:odd_hatch:20211022090128p:plain


 もうひとつ別の見方は、老人を神話の人物としてみること。85日間の不漁によって老人がかつて持っていた豊穣は失われた。それを回復するために老人は海にでる。観光客が来るような俗世から海という神話世界に入って、宝を獲得するためだ。その宝は巨大な魚の形になって老人に現れる。3日間の苦闘(イエスが荒野に入って悪魔の誘惑を退けた苦行も3日間だったのを思い出す)のすえに宝を獲得するが、老人の力はすでに衰え、地獄の番をしているようなサメに奪われる。海の宝は再び海に戻され、地上にはもたらされない(ラストシーンで魚の白骨も海に帰るのだ)。老人のクエストは失敗に終わる。豊穣さは地上にもどらない。漁村の漁師や店主、少年らは老人の仕事に感嘆するだろう。でも、宝を持ち帰らなかったので、村は衰退するしかない。観光客が来るようになった1950年代のカリブ海はいずれリゾート地として再開発され、漁師らは転業しているだろう(同じ漁村で、1980年にマキャモン「ナイト・ボート」事件が起きたと想像するのは楽しい)。その点ではクエストに失敗した神話の再話であり、最後の神話なのだろう。
<参考エントリー>
イギリス古典「ベーオウルフ」(岩波文庫)

 という具合に、強い印象を残しながら、ではいったいなんであったかというと心もとない。
 ヘミングウェイのテクニックは冴えている。冒頭とラストに漁村の現実がある。そこで疎外されている老人が海の神話的風景に飛び込む。大きな海に囲まれながら、舞台は数人乗りの小さいボートの中に限定され、そこから先は個物の描写がほとんどなくなる。時間の推移はあいまいになり、いつ-どこにあるのかがまったくわからなくなる。その間は3つのパートに別れ、出港-ヒットで3分の1、苦闘-釣りあげで次の3分の2、サメの来襲-帰港で残りの3分の1。厳密にページが割られている。そのような技術。あるいは、船の上でマグロ、シイラ、トビウオを食べるシーン。たんに3枚におろして生のまま食べるだけなのに、極上の饗宴を見ているかのよう(これほど食べることの描写がうまい作家はほかにいない)。こういう細部を楽しむ。
 ヘミングウェイの小説では世界規模の危機と男女のロマンスがつきものであるが、ここにはどれもかけている。ヘミングウェイらしくないが、魅力的な異色作。(なので最初にこれを読むと、他の作品を読んだときに面食らう。俺がそうだった。)

 

    

 ジョン・スタージェス監督の映画。