odd_hatchの読書ノート

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都筑道夫「べらぼう村正」(文春文庫)

 「神変武甲伝奇」の左文字小弥太は、ニヒルであっても気のいい浪人ものであったが、ここではひどく鬱屈している。要するに、旗本の次男坊、三男坊に生まれたために家禄を継げず、30代なかばで隠居させられてしまったから。ようするに武士社会との縁を切らされたわけだ。一方、小弥太の出会うお関は夫を亡くしたために、やむを得ず夜鷹になった苦労人。どうせ地獄にいくなら、男に収奪されないように、という考えで、数人の夜鷹と一緒に金を出し合って小弥太を用心棒に雇う。こういう社会から弾き飛ばされ、セイフティネットのない時代に組合(アソシエーション)を作って生きていこうという話(というのは、センセーの主題ではない)。

べらぼう村正 ・・・ 酒によって連れていかれた先は海辺大工町、清澄あたりの六間長屋。昨年の大水で荒れたものに手を入れていないから、今では夜鷹しか住んでいない。気の強いが人のいいお関に頼まれて、小弥太は用心棒になる決心をする。というのも、小弥太の寝ているところに駆け込んできたお秀の亭主が殺されてしまったから。そばにあったいかさま賽から小弥太は仕掛けをみぬく。
泣かぬお北 ・・・ 昆虫の頭ばかりを食べる子供を見つける。その姉、お北がお関のいる長屋に連れられて客を取ることを始めた。親が酒びたりで、金を得るためとはいえ、お北はかいがいしく働く。あるとき、頭の温かい子供が小弥太を探しにくると、お北の家では事件が。一方、お関の元夫は小弥太への復讐を申し込む。
おばけ灯篭 ・・・ 長屋に流れ着いてきたのはお芳と安次の夫婦。左官職人だった安次は家の火事で、右半身に大やけど。それから酒を食らうようになり、借金を重ねて夜逃げできたのだ。お芳はお関らと夜に客を取るし、安次はお芳が注文を持ってきた燈籠をこつこつと作っている。しかし、ある夜・・・ 互いに相手の身に立って役に立とうとしているのが、殺意に向かうまで。悲しいねえ。
六間堀しぐれ ・・・ 小弥太がまだ旗本で剣術道場にいたころ、弟子分の武士に声をかけられる。これからかつがれた娘をすくいに親分のところに談判に行くという。翌朝、その武士は無数の刺し傷をうけて川に浮かんでいた。小弥太は親分のもとにいく。女をすくいだしたのだが、女は潮来あたりに女衒に売られてもいいという。両親はいないし、祖父は寝たきり、子供ばかり数人がいるので、いずれ妹も売られてしまうのだろうという。悲しいねえ。小弥太はここで初めて人を切る。
舌だし三番艘 ・・・ お兼の父が八丈島送りから帰ってきた。もとは包丁さばきで食ってきたが、いまは板前に雇うところはない。そこで中古の屋台を買って天麩羅(そば)屋を開いた。客はついたが、武士三人に因縁をつけられる。小弥太は助太刀を買った。長屋に次第に人が集まり、自活していくようになる(とはいえ、お兼が客を取っていることが父に知られて騒動も巻き起こるのだが)。世にすねていて酒に飲んだくれていたときには感じられない幸せ(のごときもの)を小弥太も感じられる。で、因縁をつけた武士は今度は凧揚げで勝負しようというので、冒頭の新春の凧揚げにつながる。
玉屋でござい ・・・ 玉屋はシャボン玉のこと。お花見に出かけて、前の短編で因縁をつけられた武士三人とあったり、岡っ引きが「六間堀しぐれ」で小弥太の切った遊び人の下手人を探していることがしれる。しかし、天麩羅屋はうまくいっているし、長屋の女たちも生き生きとしているし、春の良い気分の時期。事件といえば、最近長屋にきた未亡人が、どこかの三下あたりと長屋の近くであいびきしているくらい。娘や老人の目の毒というわけで小弥太は仲介に乗り出す。

 時は天保年間というから、江戸の中では不況だった時代。江戸の初期は土地の水田化技術が発達し、それまで更地か湿地だったところを開拓できたので、人口は増え、経済が成長していた。しかし、18世紀の終わりになるとこの成長が止まる。要するに新規に開拓する場所がなくなったことと、貨幣経済で急激に浸透して武士階級が貧困化していったのだ。それが波及して、不況とデフレになり、幕府は経済緊縮政策をとって傷口を深める(ここ重要。○○の改革といって清貧を進める政策をよしとする解説が多いけど、不況に緊縮政策を取るとよけいに悪くなるんだ)。その種の社会矛盾が一方的に押し付けられたのが、資産のない町人であり、農民であり、下級旗本の次男・三男坊であったわけだ。というような社会背景を念頭に置いておこう。お関のアソシエーションが成功するかどうかは不明であるのだが、この小説ではお関に小弥太はなんだか社会起業家に見えるねえ。その運動でもって、ニヒルな小弥太が次第に人との関係を取り戻して、生き生きしていくのをみるのは気持ちがよい。
 ここに描かれるのは自然主義の書き方であって、小弥太は剣の達人であっても人を切るのに躊躇するし、派手な立ち振る舞いもしないし、砂絵のセンセーのように天才的に頭の切れるわけでもない。ほぼ読者と同じくらいですこしばかり度胸が据わっているだけ。天女のような、お姫様のような娘はいなくて、不細工な顔をもち、人生に疲労と苦労とすこしばかりの希望を持っているやはりちょぼちょぼの女だけ。虐げられているが街頭にでて蜂起することもできず、ずっと耐えていることになる。ここらへんの心理と会話の書き方が絶妙。言葉のリズムにのっているだけで酔ってしまう。


 
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都筑道夫「風流べらぼう剣」(文春文庫)