民の論理は、その土地に生きるちょぼちょぼの人の暮らしから生まれる論理。まあ、協力とか贈与とかで補い合いながら個人を優先しようとする。軍の論理は、組織や集団のルールや利益を優先する論理。個人の権利や利害と衝突したら、組織や集団を優先する。といって軍の論理だと個人の権利や利害を保障するわけではなく、組織や集団の都合で、個人を見捨てることがある。1970年代後半、大規模な戦争はなくなったが、いたるところ軍の論理が幅を利かすようになり、人もそれに同調するようになったというのが、著者の見方。
南海の孤島のことから ・・・ そのころアメリカの自治領になったテニアン島(サイパン島の隣の島で、この国に原子爆弾を落とした爆撃機が発進した基地のあるところ)。そこで基地からの土地返還運動をする地元の人の運動の紹介。
三十有余年の「時間の旅」 ・・・ 原子爆弾の爆発実験が行われたロス・アラモスへの旅(実験と旅の間が「三十有余年」)。アメリカの人はロス・アラモスを知らないし、その話をすると「アウシュビッツ」を持ち出して責任転換する。これはこの国の人も同じ。数の大小で責任を逃れるような論理をみんなが使う。
「軍服」を着た「文明」と「正義」 ・・・ ここは混乱気味。二つの主題があって、第2次大戦はほかの戦争と異なり文明対野蛮の図式だった。野蛮を倒した文明の側に正義があるとされたので、さまざまな非道・不正・残虐行為に対する検証や反省が行われなかった。まあ、戦勝国の自己満足、自己欺瞞があったというわけで、それが戦後の第三世界への行動や意識につながったことになる。もうひとつは国家はいくさができると組織という話。軍隊という暴力装置を持つことで、国家は人々の文明と正義の代弁者になりその中身を検討しないようになる。他国(の軍隊や非道行為)と比較することで自己を正当化する。武装する官僚制が倫理や思考を外在化して、たたかいの意義や正義を検討しなくなる。まあ国家目的を自己の目的や目標と同一化してしまうわけだ。そのような国家や軍隊を相対化する視点として、ゲリラ組織の思想性や万能人を提示する(パレスチナゲリラの話がでてくる。「天下大乱を行く」(集英社文庫)を参照)。
「戦後世界」の構造と動き ・・・ 書かれた1978年は冷戦が継続中。イスラム革命もないしグローバル資本主義もない。当時の世界を資本主義諸国と社会主義諸国と第三世界の対立として図式化する。共通するのは、各国の対立にもかかわらず、近代国家は国のパワーをアップすることが目的になり、強固な官僚制・工業化・正規軍をもち、軍の論理を貫徹しようとするということ。
「民」の論理と「国家」の壁 ・・・ 国家の文明と正義も、民の論理からすると野蛮と不正義になることがある。国家のエゴイズムが民の権利を侵害するときにおいて。そのような見方は国家に抗してたたかう現場でみえてくる。
「国家が、そして、「西洋」がまき返す ・・・ 1960年代後半から1970年代前半。先進国の若者たちの反乱や、ベトナム・キューバ・石油ショックで、資本主義・社会主義・第三世界に限らず国家は力を強くする政策をとる。そこで民の権利や畏友が芯がされる。そのとき中江兆民の謂う「恩恵的民主主義」ではなく「恢復的民主主義」を獲得する戦いが必要。
「新しい日本」の「新しい日本人」として ・・・ 1945年のこの国の敗戦を経験したものからすると、(1)日本は世界全体の的であって、その国の主張してきた正義や文明は誤りであった、(2)占領軍の恩恵的なものであってちゃんとかんがえぬいたものではないにしても「民主主義の世の中」は歓迎された、(3)国家の威信を感じる人はまずいなかった。そういう数年間の後、復興して国力が高まると、上記のようにふたたび国家のパワーが強くなりそれに同調する人がでてきた(そして差別的言辞をはくもの、排外主義を主張するものもでてくる)。そこにおいて、民の論理で「恢復的民主主義」を獲得しよう。その際には、自立と自律が重要。国家の文明と正義ではなく、普遍的な文明と正義を求めよう。たたかいの現場においては組織にとらわれず横断と横行するのがよい(幕末の志士の運動は横断と横行であった)。その先には、自主管理のコミューンがあって、国家のない社会を見据える(あまり具体的ではない)。
この本の影響もあるのだろうが、自分も著者が言うように国家は道具であって、象徴でもアイデンティティの根拠でもないし、まして個人の目的であるわけではない。なにしろ過去200年でこの国は数回国家のあり方が変わっているから。道具として役に立たない/害悪をなすのであれば、国家を入れ替えることにためらう必要はないと考える。ついでにいうと、あんまり個人の生活に国家が介入してほしいとも思わない(マイノリティや貧困者、病人、老人子供などの弱者への配慮や支援は別)。なので、この本の「たたかう」原理と志には共感する。
でもこの本を読んでいる間、さまざまに引っかかるところがあって、集中できなかった。箇条書きにすると、
1.著者のいうのは「政治学」ではあるが、「経済学」がない。なので、自主管理やコミューンの話になると空々しくなる。
2.国と民に分けていて、その間にある組織や集団が考慮されていない。群の論理を貫徹するのが国家というが、なるほどアメリカ、ソ連(当時)に中国のように超大国はそうだろう。でも多くの国家は社会民主主義政策をとって、民の要求にこたえる政策をとるのだが、そこは捨象してよいの? グローバル資本主義だと、巨大企業が政策に関与したり、政策に関係なく活動を行って、民を苦しめることがあるがその記述と分析がないのも。
3.民主主義の回復のために「たたかう」ことが強調される。でも、人の日常にはほかに「はたらく」「くらす」「たのしむ」などがあるのだが、そちらとの関係は。ここを強調しすぎると、決意ばかりを優先することにならないかな。たたかうには身銭を切る必要があって、ワーキングプアは当時は少なかったとはいえ、この本の問題意識だと、金と暇を持たない人は漏れてしまうね。
4.たたかいで重要なのは原理と志ということだそうだ。でも原理や志の誠実さや普遍性はどうやって判断するのか、担保されるのか。それに善意や熱意で行っていることが、害をなしたり悪であったりすることもある(テロリズムやニセ医療など)。そうすると原理や志で判断するのは効率的でないし、失敗を排除することもできなくなるのでは。むしろ成果とパフォーマンスを重視したほうがよいのではないか。