odd_hatchの読書ノート

エントリーは2400を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2020/10/13

鶴見俊輔「戦時期日本の精神史」(岩波現代文庫)

 もしもこの国の歴史を全く知らない人に現代史を説明することになったら。その人にはこの国に住む人の常識とされることがまったく伝わらない。「国体」「転向」「226事件」「満州事変」「隣組」「天皇機関説」がそのままでは伝わらない。「ちゃぶ台」「おひつ」「漬物」「七五三」「童謡」「君が代」などの言葉からイメージがわいてこない。鶴見俊輔は1978年からカナダの大学生(および留学中の日本人研究生)に対してこの試みを行った。それは「常識」を、説明不要で通じる言葉や出来事を再点検することになり、かつ、この国の歴史を他の国と対比することで見ることになった。そして歴史書が扱わない書籍(一般人の記録、雑誌など)から、この国の人々の多様性を見出す。その記録が以下の通り。自分の要約は、著者の指摘や論点をかなり省略しているので、ぜひとも原典にあたってほしい。

1931年から45年にかけての日本への接近 ・・・ タイトルの時期を一続きの戦争行為としてみること。あわせて、日本単体の出来事としてものを考えるのではなく、同時代の共通性と現代にいたる通時性をもつこと。たとえば、1931年の満州侵略と満州国の設立はドイツとイタリアのファシストが真似した(さらにソ連が真似したといえるかも)。日本を朝鮮や中国との比較で考えること。

転向について ・・・ 明治維新後、この国は学歴社会を作っていて、それは今に至るも大衆の支持を受けている。そのために、帝国大学に入学した18歳は人生のもっとも過酷な競争を終えたという意識と、国家の指導者であるという意識をもった。「転向」は1930年代の共産党員を主な事例としているが、転向を行ったものの多くがこの種のエリートであり、転向後も指導者であるという意識を捨てることはなかった。転向の重要なポイントは、権力の強制力と党員の自発性によること(および大衆からの遊離)。学歴社会とあわせて転向を考えることが必要。なぜなら共産主義からの転向があったわけではないから。

鎖国 ・・・ 転向の例として、伊藤整自由主義から)、官僚(天皇機関説から軍国主義へ)などを紹介。この国は海に囲まれていることで、1)国境を意識しない、2)外国人が侵略するという民族的な記憶がない、3)国内に住む人に対する同族意識がある、4)先進文化から取り残されている、5)洗練され優雅であると自己判断している、などの鎖国性をもっている。それは敗戦や大衆文化、自由主義経済が徹底した戦後においても消えていないようだ。転向問題においては、異議申し立てをしにくい状況をつくる(マイノリティが自発的にマジョリティに融合するように誘導)、同属員に対して責任をもつように考える、などが鎖国性で重要。

国体について ・・・ 明治維新を経てこの国を近代化するにあたり国家のデザイナーは国民統合の方法を編み出した。それを著者は密教顕教と呼ぶ。密教は、ヨーロッパの合理主義や法治主義を規範とし、主に国家の指導層・官僚・高位軍人に対して教育された。顕教は、国内の神話を規範とする非合理的・呪術的な思想で、鎖国性を強調するものだった。この二重性は次第に運用が難しくなり、1930年代になると顕教の非合理的・国家主義的な考えが密教で運営しなければならないところまで波及する。天皇機関説問題であり滝川事件など。1931年に始めた日中戦争終結する方法を密教の指導層は作れなかった。米英等への宣戦布告が非合理的な判断で起きた背景にはこのような密教の転向がある。

大アジア ・・・ 江戸時代にもっていたアジア(とくに中国)への関心を明治維新の後に積極的に捨て、西洋の文化文明の勉強にあてた。その後、アジアに目を向けたとき、この国の密教の立場の人々はこの国と指導者たちはアジアの指導者であることに疑いを持たなかった。1931年からの15年戦争で「大アジア」の思想は長らく形成されなかった。終結の見通しが立たなくなったときに初めて「大東亜共栄圏」という言葉が生まれる。しかしその内容はこの国の利益にしか興味を持たないものであった。参考になるのは尾崎秀美。

非転向の形 ・・・ この国では外来思想に対し絶えず弾圧が行われたが、さまざまな方法で転向しなかった集団がある。古くは隠れキリシタンであり、隠れ黒仏という宗派もあった。これらは同じ共同体で「愛」の集団を作り、相互に補助することを行っている。ここらへんは、エチオピアや中東の原始キリスト教の流れと同じ特徴をもっているかもしれない(ここは自分の感想、なおこれと関連して高橋和巳邪宗門」、大江健三郎「同時代ゲーム」、出口京太郎「巨人 出口王仁三郎」を読み直すことになるだろう)。同様に31-45年の間に、いくつかの宗派や個人が良心的兵役拒否を行った。一方、多くの宗派、宗教団体は戦争協力を行った。また、非転向のものとして共産主義者もいる。彼らには吉本隆明の批判がある。

日本の中の朝鮮 ・・・ 江戸時代の政府は朝鮮および朝鮮人を礼節をもって迎えた。明治維新のあと、文明開化にまい進するこの国の人は朝鮮を暴力的にも開化する権利を自分らが持つと考えるようになった。それは右翼(民族主義者、国家主義者)でも左翼(自由民権運動、板垣や後藤が朝鮮のクーデター計画を練っていた)でも同じ。その構想を国家が横取りするように1910年代から朝鮮を属国化していく。同時に、この国の工業化によって、労働者が朝鮮から来るようになった。そして朝鮮人への蔑視や差別は民衆に根付くことになる。敗戦後の占領軍はこの国の朝鮮人のことを調査してこなかったので、ほぼこの国の役人に丸投げし、戦前と同じような政策を継続することになった。なお、戦後の作家の中には朝鮮人を主人公にする作品を書くものがでるようになったが、戦前にはいなかった。
 松尾尊兌「大正デモクラシー」(岩波現代文庫)も参考に。

スターリン化をめざして ・・・ ソ連という国の受容について。ロシア革命がこの国の文明のはしご掛け(後進国を指導する権利を持っているという考え)に大きな影響を与え、当時設立されたコミンテルンの影響下にこの国に共産党ができた。それは当時の指導者であるスターリンおよびソ連共産党を崇拝、無謬視するものであった。それに対抗する視点を持っていたのは、ロシア革命以前から社会主義運動、労働運動、農民運動を行ってきた人(山川均と大河内一男を例にとる)であり、少数の党員(埴谷雄高など)であり、戦後にシベリアに抑留された軍人・民間人(高杉一郎長谷川四郎など)。ここで徳田要請問題に触れている(木下順二「蛙昇天」)。

玉砕の思想 ・・・ 1931年に始まったこの国の長期戦争は当初の戦争計画立案者を排除することによって、場当たりの、成り行き任せになった。もし戦争に勝利する可能性があるとしたらドイツが英国に勝利・占領することだけであるとリデルハートはいう。日本はそのような判断もなくドイツの勝利に乗じるように(ないしは石油備蓄の減少枯渇と、米国の圧力への対抗のため)、米英国に宣戦布告する。資源の枯渇、兵站の延長によって絶望的な状況になり、自殺戦術が取られる。そこにおいて特攻兵士の中には自発的(しかし他者には聞こえないように)に考えることをする人びともでてきた。また、当時幼少のものには特攻兵士が出発した後の心情を忖度することができるようになった(年長のものにはそれができなかった)。

戦時下の日常生活 ・・・ 戦時は国家に統制経済を強いる。それをこの国と英国とで比較するというのは面白い試み。英国ではヤミ市は重要ではなく、物価統制と流通はしっかりと行われた。この国ではそうではなく、個人的なツテを使って物資を購入しないといけない。男子が徴兵や軍需工場に動員されていたので、家族のいっさいの責任が女性にいき、多くの女性はそこで自分の強さを見出した。あと、隣組の思想が東京都役所の課長の発案であったものが、全国に採用された。これは相互扶助を目的にしてはいたが、むしろ相互監視・連帯責任の道具になった。そのとき、この国の鎖国性はインサイダーには優しく、いったんアウトサイダーとみなしたものには一家・一族ごと殲滅するほどの厳しさというか処罰を与えるのであった。例として、横浜事件が取り上げられる。あとは黒澤明「我が青春に悔いなし」が参考になるかな。
 荒俣宏「決戦下のユートピア」(文春文庫)も参考に。

原爆の犠牲者として ・・・ この国の外では原爆が市民に知られていないことが背景にある。前半は原爆投下に対するふたつの対応。すなわち軍事戦略としては不要であった、一方戦後の国際政治での思惑とマンハッタン計画への投資が成功であったことのデモンストレーションとして投下の圧力が計画関係者にあったことが示される。後半はこの国の原水爆反対運動について。それまでのエリートの社会改革運動(それはしばしば国際的な広がりを要求していた)に対し、この反対運動が地域の個別問題から発し、次第に国内や国外に視野を広げる仕方をとり、戦後の住民運動市民運動のモデルになった。

戦争の終わり ・・・ 敗戦の受け止め方の例を3つあげる。ひとつはこの国に拘留されていて外国人。もうひとつは沖縄(1952年に平和条約が締結されても占領状態が解除されなかった土地、そのことに本土の人はほとんど無関心か痛みを持たない)。さらに子供(当時6-15歳。彼らは大人、とりわけ教師の転向をみて不信を持つようになった。かれらが成人になったとき、戦争下の国内政策立案者が総理大臣になって軍事条約を締結しようとしたときの主要な反対者になった。その動機は、子供時代の不信にあると考えてよい)。このように周辺、辺境、外の眼でこの国の出来事を見る。

ふりかえって ・・・ 著者の方法は比較転向論。転向を権力の強制力と党員の自発性による思想の転換、くらいのおおまかなあつかいにしておく。そうすると、共産党員だけではなく、民族主義者にも国家主義者にも、右翼にも左翼にも政治家にも学者にもみることができる。そうすると、転向はこの国のあの時代にだけあったのではなく、社会主義国にも民主主義国にもあった。例としては、1930年代のソ連の粛清裁判だし、1950年代のアメリカのマッカーシーズム。ここでは後者でリリアン・ヘルマン「眠れない時代」を使って、転向ではない別の対処法を見出している。それに似たひとはこの国にも多く見出すことができ、リリアンのいう「まともさ(ディーセンシー)」の重要さ(思想とは別の生活とか暮らしのあり方みたいなものとして)を説く。


 精神史なので、個別事象や人物の評価は行わない。そのような決断や雰囲気などが醸し出された(という書き方が日本的なのだろう)背景の精神の在り方をみる。そのときに注視するのは
鎖国
・転向 → 主には知識人の例を見ているのだが、官僚もまた1930年代前半に転向しているという指摘がある。軍人たちの圧力で、国家統制の思想に乗り換えた。官僚は敗戦で転向することはなく(むしろ自分らが主導権を持てばよりうまく運用できたと考えたのではないか)、戦後も彼らの精神は延命したし、戦争政策の一部は戦後も継続し、戦争の政策立案者が戦後の総理大臣などの政治の指導力を持った(吉田茂岸信介池田勇人など)。
・東大新人会 → この国のエリート主義や官僚主義などを代表する学生運動であるからだろう。なにしろこの新人会に参加したものの多くが官僚、政治家になり、あるいは思想人としてこの国の知的指導力を発揮したから。そのような傾向は戦前の共産主義者(とくに1918年のロシア革命に感銘を受けた世代とその後輩たち)にも顕著だったから。
 重要なのは、1931-45年を「15年戦争」とみること、および1945年は中国に敗れたことを主張する。ポツダム宣言アメリカ・イギリス・ソ連の3か国による勧告であり、占領したのはアメリカであり、アメリカ軍籍であるミズーリ号上で敗北の調印をしたことなどから、アメリカに負けたという総括をするのが一般的であるが(それはそれ以前の朝鮮・台湾・中国の侵略と戦争を正義とみなす、あるいはなかったこととみなす主張とセット)、そうではないと考える。これは家永三郎「太平洋戦争」(岩波現代文庫)森本忠夫「マクロ経営学から見た太平洋戦争」(PHP新書)などの主張と一致する。自分も支持する。
 という具合に、どのページを見ても発見と驚きがある。そしてここを起点に、別の本を読むことになる。

  

鶴見俊輔「戦後日本の大衆文化史」(岩波現代文庫)

<追記 2015/7/24>
「リベラルな立場で幅広い批評活動を展開し、戦後の思想・文化界に大きな影響力を持った評論家で哲学者の鶴見俊輔(つるみ・しゅんすけ)さんが死去したことが(2015年7月)23日、わかった。93歳だった。」
鶴見俊輔さん死去 「思想の科学」「ベ平連」93歳:朝日新聞デジタル
 いろいろなことを教わりました。ありがとうございました。