odd_hatchの読書ノート

エントリーは3400を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2025/9/26

ジョゼフ・シェリダン・レ・ファニュ「カーミラ・緑茶」(BOOKS桜鈴堂) ゴシックロマンスの伝統を忠実に守って新規性を見出せず、マイナー作家になってしまった。

 ジョゼフ・シェリダン・レ・ファニュはアイルランド出身の作家(姓からフランスの人とずっと思ってました)。

カーミラ1872 ・・・ とても信じがたい危難を経験した女性ローラの口伝。父がシュロス城を購入して子供のころから住んでいる。周囲には人家はなく、城の関係者しかいない。幼児の時、寝室に若い女性の顔を見て失神した。翌朝二本の針で胸を刺された徴が残っている。19歳の年、馬車で急ぐ貴婦人が城の前で事故を起こした。先を急ぐというので、カーミラという若い女性をしばらく預かることになった。年が近い友達がいないローラは大歓迎。優雅な物腰で長い美しい髪をもつカーミラにローラは誘惑と嫌悪の両方を感じる。カーミラは「あなたは私のもの」といってしょっちゅうローラに抱き着いてくる。村に伝染病に流行っているという噂が立ち、幼児や女性が次々と亡くなっていた。城のものとして葬儀にでねばならないが、カーミラは拒否する。ローラも寝苦しい夜夜を過ごす中、寝室に猫に似た大きな獣が入ってきて、首筋をかまれた。驚いて起き上がると、口の周りが血だらけのカーミラが立っている。以来ローラは体調不良で寝込む日々。城をよく知っている将軍がローラの父を訪れ、最近あった恐怖譚を語る。それはローラに起きたことと同じ。将軍はそれこそミラーカの仕業といい、木樵りとともに敷地の中でミラーカの墓を見つけた。退魔審問の儀式を行う……。
 舞台はドイツらしい。たぶん南部のカソリック圏だ。プロテスタントは霊魂の存在を否定しているので、幽霊や不死者の存在を認めない。でもカソリックはそうではないので、幽霊や不死者アンデッドがいてもおかしくないのだ。カーミラは西から来た、というので、スコットランドかアイルランドから来たのだろう(いずれもカソリック国。イングランドはプロテスタント系なので不死者はいない)。
 吸血鬼は血を吸って仲間?を増やすから怖いのではなくて、最後の審判で天国に行くことができない人間が不死者として蘇ることが問題なのだ。ここでも自殺者はときとして吸血鬼になるとされ、とくに女性(女性も神の救いから外れている存在)を襲って仲間にしていく。この小説でもカーミラは不死者とされ、1698年に描かれた肖像画と同じ顔をしていた。さらにカーミラは「自然こそ造物主」と豪語する。これはキリスト教の神を否定している言であり、無神論の主張なのだ(19世紀はキリスト教への懐疑が生まれていて、キリスト教の神を否定して汎神論や無神論を主張するものがいた。ショウペンハウエルやヘッケルやニーチェなど)。このように存在も主張もアンチ・キリストであり、血を吸う儀式によって人間を堕落させていくのだ。なので、積極的に排除しなければならない。一方で、瀆神の罪を持ちそうな機会から逃れた小説のキャラを通して、読者は信仰を強くもてというメッセージを受け取る。
 丹治愛「ドラキュラ・シンドローム」(講談社学術文庫)では、ストーカーの「吸血鬼ドラキュラ」が外国人恐怖(ゼノフォビア)のメタファーをもっていると解読している。その指摘はここでもみつかり、カーミラの相貌はユダヤ人の特長を持っている。村に現出する死者は伝染病とされるが、その症状は結核によくにていて、病原菌によるものとされる。病原菌恐怖の現れ。カーミラがローラを誘惑し堕落させるというのは女性嫌悪(ミソジニー)の現れ。同性愛も当時のタブーであるので、カーミラの行為は反道徳なのだ。
 あとはブッキッシュな話題。読みながらさまざまな別の本のことを考えた。広大な森に囲まれた巨大な城に起こる怪異はエドガー・A・ポー「アッシャー家の崩壊」。カーミラとローラの蠱惑的な行為はドスト氏の「ネートチカ・ネズヴァーノヴァ」。カーミラがときどき行方不明になるのを夢遊病で説明するのはコリンズ「月長石」。カーミラが密室からいなくなるのを調べるのは探偵小説。古い城を買って謎めいた美女に翻弄され城の秘密を発見するのはアリス・ウィリアムソン「灰色の女」。将軍の長い昔話がクライマックスになるのはM・R・ジェイムズの短編(「マグナス伯爵」「ウィットミンスター寺院の僧房」など)。もちろんストーカーの「吸血鬼ドラキュラ」も。舞台が古い城に限定されるゴシックロマンスそのもの。そこに19世紀前半の新しい恐怖小説の趣向をくわえ、そのあとにジャンル小説の道を開いた。
 21世紀から見ると、構成に難あり。将軍の昔話は全体の半ばにあるべき。そのあとカーミラを追跡し制圧するまでの冒険があるべきなのだ(同時に城の秘密が明らかになる)。またローラの幼少期の陶酔的な体験は最後に思い出すべきであって、ローラのトラウマになっていた体験が明らかになると同時に自分が怪物であるかもしれないという新たな怯えを持った方がよい。と勝手なことをぬかしたが、これが結実したのが笠井潔「黄昏の館」マキャモン「アッシャー家の弔鐘」であるとすると、俺の想像力はたいしたことがないのである。

緑茶1869 ・・・ いろいろなアンソロジーに収録されている代表作。レ・ファニュの小説の語り手ないし狂言回しのヘッセリウス博士の手記。イギリスのジェニングス(牧)師が奇妙な体験をしていて、どうにかしてほしいといわれる。ある晩に図書館から帰る馬車の中、ひとりで暗闇に座っていると、奇妙な灯を見つける。それは猿だった。馬車から降りても猿はついてくる。ついには師の家に住み込むようになるが、居住人は誰も猿を知覚しない。そのうちに猿は凶悪なことを吹き込むようになり、ジェニングス師は不眠でたまらない。ついに……。
 猿はヨーロッパに住んでいない。存在を知るのは大航海時代以降にアジアの猿が連れてこられてから。そこで猿は凶悪で人語を解する悪魔的存在にみられるようになる。エドガー・A・ポー「モルグ街の殺人」を参照。アジア人には猿は友愛や友好の対象なので、西洋人の感覚には違和を覚えるだろう。この話では、猿が象徴する悪魔がマジメな牧師に取り憑き、彼を悪魔に変えることに恐怖を覚えるのだ。これを現代的に再話したのが、ウィリアム・ブラッティの「エクソシスト」。この話では悪魔祓いの儀式が始まる前にストーリーが終ってしまった。趣向はよかったが、語り方とストーリーの展開がいまひとつ。
 さて、猿が四六時中見えるというのは、もう少し後ならフロイト博士の重要なテーマであっただろう。そうすると師の症状は悪魔憑きではなく、さまざまな精神症状とみられるはず(実際、うつ病であると師は告白している)。猿という自己内の他者が監視する神経症状は大江健三郎の初期短編にあった。「共同生活」など。大江は「緑茶」を読んでいたかな。
(しまった、書き忘れた。猿への嫌悪感は、反進化論です。人間は神に選ばれた特別な存在であるのに、知性を持たない猿と同じと考えるのは、当時の西洋人にはがまんできない侮辱的な言説だった。)
 またこの症状は「緑茶」の飲みすぎ(現代ならカフェインの取りすぎとされるか)とされる。イギリスではインドを植民地にしてから茶葉を輸入していたが、好んだのは発酵茶の紅茶だった。発酵させない緑茶はオリエントの飲み物なので、作者はそこに外国人恐怖を見ていたのかもしれない。
 ジェニングス師は霊魂不滅と死後の蘇りを信じていた。ヘッセリウス博士は「形而上医学論」という書物を持っていた。19世紀半ばのヨーロッパの思想状況を見渡せば、霊魂不滅を主張するショウペンハウエルが流行っていた。神智学のブラヴァツキー婦人や霊界思想のスウェーデンボルグなどが流行っていた。この少しあとには一元論思想と霊魂不滅を主張するエルンスト・ヘッケルが現れる。ヘッセリウス博士もその系譜にある人。19世紀は科学の時代で、それまでの常識が次々と覆され、神を中心にする秩序が崩れていく。そういう危機の時代に霊魂不滅を信じることで平衡を保とうとしたのだろう。単純な反動というより、積極的に信じていた。それこそ現在の人類が「新しい人間」に生まれ変わることで世界を救済しようとする思想も生まれた(ショウペンハウエル、ニーチェ、ワーグナーなど)。この小さな短編もそういう潮流に位置づけられる。


 「カーミラ」については、平井呈一も次のように手厳しい。

「その完成度も、レ·ファニュの数多い怪奇小説のなかで、五指のうちにかぞえられる出来ばえであります。しかし遺憾ながら、まだゴチック文学の伝統である貴族的密室趣味からは、一歩も出ていませんでした(ストーカー「吸血鬼ドラキュラ」創元推理文庫所収の解説)」

 俺の感想も平井のこの文の影響下にあるに違いない。
 レ・ファニュは19世紀イギリス恐怖小説の改革者。ゴシックロマンスの伝統を忠実に守っている。近代や科学技術には関心がなかったのか、新規性を持たせることはなかった。そのために、メアリー・シェリースティーブンソン、ストーカーのようには大作品を生み出すことができず、マイナーな作家で終わった(そのかわりに少数の熱狂的な読者を持つことができた)。

 

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