odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

フョードル・ドストエフスキー「白夜」(角川文庫) 失恋した26歳の「空想家」は希望や人との関係を持っているので地下室にこもらないでいられそう。

 今回は角川文庫の小沼文彦訳。昭和33年1958年初版なので、前回読んだ米川正夫訳よりも新しい。たとえば以下の言葉が注釈なしに使われる。「デート」「ランデブー」「ハート」「(好きな人の)タイプ」など。これらは当時の若者言葉。昭和30年代の日本の青春映画によく登場する言葉だ。その結果、米川訳より語り手「私」はずっと戦後の26歳の若者らしくなった(21世紀の最新訳はもっとこなれているだろうが)。

f:id:odd_hatch:20210720093823p:plain


 あらすじは前回のエントリーを参照。

odd-hatch.hatenablog.jp


 恋人のいない、人付き合いのよくない青年が10代の女の子の好意に舞い上がって、勝手に失恋してしまった。今回の訳文だと、米川訳のような沈鬱さはなくて、失恋のあとに世界が老いぼれてしまったように感じているこの青年も立ち直れそうな雰囲気がある。頑張れ、若造。
 気の付いたところをいくつか。
・訳文が新しくなったことと影響して、ペテルブルクも若々しくなった。建物が「私」に語り掛け、呼びかける。のちの「罪と罰」のような人を拒絶する都市ではない。堀田善衛がいうように(フョードル・ドストエフスキー「白夜」(河出書房)-2 )、都市の見方が異なるのだ。
・語り手「私」は空想家。どこかに勤めてはいるようだが、あいた時間には空想にふける。その際に参照するのはホフマン、スコット、プーシキンの小説に、マイアベーアの音楽に、ダントンの歴史上の人物。空想するといっても手掛かりなしではできない。読んだテキストや見た画像を参照して、それをなぞり、過剰にしたり省略したり組み合わせたり場所を変えたりというような編集作業をすることで空想の「翼」が広がる。その証左。19世紀半ばの青年がやっていることは、21世紀のオタクがアニメや漫画を使ってやっていることといっしょ。
・ナースチェンカは語り手「私」と会ってから4回心変わりをする。すなわち、不審→好意→友達→愛→振る(それに応じて「私」も愛から失意まで感情はジェットコースターのように揺れ動く)。好意が愛に変わるのは、「私」が書いた手紙に「あの人」が返事をくれなかったから。自分が大事にされていない、相手に無視されていることへの怒りがあてつけとしてすぐそばにいる人への「愛」になるのだね。珍しいことではなく、よくある話だ。だから、ナースチェンカの心変わりも一瞬でおこるのだ。
・小説は語り手「私」がペテルブルクの街にでて、ナースチェンカと会っているときのことが語られる。「私」は老いた女中マトリョーナのいる下宿部屋で、いろいろ悶々と考えにふけったり、マトリョーナとの頓珍漢な会話をしたりしているはずだが、それは書かれない。この語り手「私」は、「地下室の手記」の語り手や「罪と罰」のラスコーリニコフほどの孤独や孤立を感じていないので、社会や世間への不満もまだ少ないのだろう。だからラストシーンに希望を見いだせそう(ただそれはナースチェンカへの未練としてしか現れない)。実際、「白夜」の「私」が空想するのは、「新しい生活」「新しい夢」「魅惑的な生活」。観念や思想を空想するのではない。でも、「私」は自分に「怠け心」があると自覚しているので、それを克服しないでいると、「地下室の手記」の語り手(40歳)になりうる。希望や人との関係を持つことは、観念の「地下室」に閉じこもらないようにする大切なルーティンなのだ。
 前回読んでからそれほど時間は立っていないが、発見することはいろいろあった。名作、古典たるゆえん。


フョードル・ドストエフスキー「貧しき人々」→ https://amzn.to/43yCoYT https://amzn.to/3Tv4iQI https://amzn.to/3IMUH2V
フョードル・ドストエフスキー「分身(二重人格)」→ https://amzn.to/3TzBDKa https://amzn.to/3ISA99i
フョードル・ドストエフスキー「前期短編集」→ https://amzn.to/4a3khfS
フョードル・ドストエフスキー「鰐 ドストエフスキー ユーモア小説集」 (講談社文芸文庫)→ https://amzn.to/43w8AMd
フョードル・ドストエフスキー「家主の妻(主婦、女主人)」→ https://amzn.to/4989lML
フョードル・ドストエフスキー「白夜」→ https://amzn.to/3TvpbeG https://amzn.to/3JbxtDT https://amzn.to/3IP71zF https://amzn.to/3xjzJ92 https://amzn.to/3x9yLfE
フョードル・ドストエフスキー「ネートチカ・ネズヴァーノヴァ」→ https://amzn.to/3TwqMRl
フョードル・ドストエフスキー「スチェパンチコヴォ村とその住人」→ https://amzn.to/43tM2vL https://amzn.to/3PDci14
フョードル・ドストエフスキー死の家の記録」→ https://amzn.to/3PC80Hf https://amzn.to/3vxtiib
フョードル・ドストエフスキー「虐げられし人々」→ https://amzn.to/43vXLtC https://amzn.to/3TPaMew https://amzn.to/3Vuohla
フョードル・ドストエフスキー「伯父様の夢」→ https://amzn.to/49hPfQs
フョードル・ドストエフスキー地下室の手記」→ https://amzn.to/43wWfYg https://amzn.to/3vpVBiF https://amzn.to/3Vv3aiA https://amzn.to/3vmK9V5
フョードル・ドストエフスキー「論文・記録 上」→ https://amzn.to/3VxSShM
フョードル・ドストエフスキー「論文・記録 下」→ https://amzn.to/3VwvP79
フョードル・ドストエフスキー「賭博者」→ https://amzn.to/43Nl96h https://amzn.to/3x2hJju
フョードル・ドストエフスキー「永遠の夫」→ https://amzn.to/3IPQtY7 https://amzn.to/43u4h4f
フョードル・ドストエフスキー「後期短編集」→ https://amzn.to/49bVN2X
フョードル・ドストエフスキー「作家の日記」→ https://amzn.to/3vpDN7d https://amzn.to/3TSb1Wt https://amzn.to/4a5ncVz

レフ・シェストフ「悲劇の哲学」(新潮文庫)→ https://amzn.to/3TR758q https://amzn.to/3x2hMvG
フョードル・ドストエフスキードストエーフスキイ研究」(河出書房)→ https://amzn.to/4avYJIN
河出文芸読本「ドストエーフスキイ」(河出書房)→ https://amzn.to/4a4mVSx
江川卓「謎解き「罪と罰」」(新潮社)→ https://amzn.to/493Gnxy
江川卓「謎解き「カラマーゾフの兄弟」」(新潮社)→ https://amzn.to/3VygEKG
亀山郁夫「『カラマーゾフの兄弟』続編を空想する」(光文社新書)→ https://amzn.to/493GqcI

 

 「白夜」一編で一冊にするのはもったいない。「主婦(女主人」「白夜」「地下室の手記」(「罪と罰」)「おとなしい女」「おかしな人間の夢」がまとまった、ドストエフスキーの孤独な夢想家を主人公にした小説集があればよい、と強く思う。

 あるいは、惚れた女を他人に取られるという系譜を見ることもできそう(研究者の間では「寝取られ男」とされているんだって)。「貧しき人々」「分身(二重人格)」「九通の手紙に盛られた小説」「スチェパンチコヴォ村とその住人」「弱い心」「人妻と寝台の下の夫」「正直な泥棒」「クリスマスと結婚式」「白夜」「初恋(小英雄)」「伯父様の夢」「虐げられし人々」「永遠の夫」

埴谷雄高 INDEX

2021/07/12 埴谷雄高「死霊 I」(講談社文芸文庫)ガイド 1946年

f:id:odd_hatch:20210629085241p:plain

f:id:odd_hatch:20210607090057p:plain

f:id:odd_hatch:20210521085831p:plain


2021/07/09 埴谷雄高「死霊 I」(講談社文芸文庫)「序」 1948年
2021/07/08 埴谷雄高「死霊 I」(講談社文芸文庫)「第一章 癲狂院にて」 1948年
2021/07/06 埴谷雄高「死霊 I」(講談社文芸文庫)「第二章 《死の理論》」-1 1948年
2021/07/05 埴谷雄高「死霊 I」(講談社文芸文庫)「第二章 《死の理論》」-2 1948年
2021/07/02 埴谷雄高「死霊 I」(講談社文芸文庫)「第二章 《死の理論》」-3 1948年
2021/07/01 埴谷雄高「死霊 I」(講談社文芸文庫)「第三章 屋根裏部屋」-1 1948年
2021/06/29 埴谷雄高「死霊 I」(講談社文芸文庫)「第三章 屋根裏部屋」-2 1948年
2021/06/28 埴谷雄高「死霊 II」(講談社文芸文庫)「第四章 霧のなかで」-1 1948年
2021/06/25 埴谷雄高「死霊 II」(講談社文芸文庫)「第四章 霧のなかで」-2 1948年
2021/06/24 埴谷雄高「文学論集」(講談社)-1 1973年
2021/06/22 埴谷雄高「文学論集」(講談社)-2 1973年
2021/06/21 埴谷雄高「文学論集」(講談社)-3 1973年

f:id:odd_hatch:20210621085332p:plain


2021/06/18 埴谷雄高「政治論集」(講談社)-1 1973年
2021/06/17 埴谷雄高「政治論集」(講談社)-2 1973年

f:id:odd_hatch:20210617090059p:plain

2021/06/15 埴谷雄高「死霊 II」(講談社文芸文庫)「第五章 夢魔の世界」-1「死者の電話箱」 1975年
2021/06/14 埴谷雄高「死霊 II」(講談社文芸文庫)「第五章 夢魔の世界」-2 スパイ査問事件 1975年
2021/06/11 埴谷雄高「死霊 II」(講談社文芸文庫)「第五章 夢魔の世界」-3 窮極の秘密を打ち明ける夢魔 1975年
2021/06/10 埴谷雄高「意識・革命・宇宙」(河出書房) 1975年

f:id:odd_hatch:20210610085513p:plain


2021/06/08 埴谷雄高「死霊 II」(講談社文芸文庫)「第六章 《愁いの王》」-1 1981年
2021/06/07 埴谷雄高「死霊 II」(講談社文芸文庫)「第六章 《愁いの王》」-2 1981年
2021/06/04 大岡昇平/埴谷雄高「二つの同時代史」(岩波書店) 1983年
2021/06/03 埴谷雄高「死霊 III」(講談社文芸文庫)第七章 《最後の審判》-1 1984
2021/06/01 埴谷雄高「死霊 III」(講談社文芸文庫)第七章 《最後の審判》-2 1984
2021/05/31 埴谷雄高「死霊 III」(講談社文芸文庫)第七章 《最後の審判》-3 1984
2021/05/28 埴谷雄高「死霊 III」(講談社文芸文庫)第八章 《月光のなかで》-1 1986年
2021/05/27 埴谷雄高「死霊 III」(講談社文芸文庫)第八章 《月光のなかで》-2 1986年
2021/05/25 埴谷雄高「死霊 III」(講談社文芸文庫)第九章《虚體》論―大宇宙の夢-1 1995年
2021/05/24 埴谷雄高「死霊 III」(講談社文芸文庫)第九章《虚體》論―大宇宙の夢-2 1995年
2021/05/21 埴谷雄高「死霊 III」(講談社文芸文庫)第九章《虚體》論―大宇宙の夢-3 1995年

 

2021/05/20 川西正明「謎解き「死霊」論」(河出書房新社)-1 2007年
2021/05/18 川西正明「謎解き『死霊』論」(河出書房新社)-2 2007年

埴谷雄高「死霊 I」(講談社文芸文庫)ガイド 素人による参考になりそうな本リスト。革命、宇宙、ドストエフスキー、悪魔学などなど

  この小説は、敗戦直後の1946年に雑誌「近代文学」に連載された。第4章まで書かれて1948年に中断。それから約20年の時を経て、第5章が1975年に突然発表(このとき、「完本」のタイトルで第5章までの分厚く黒い本が出た。中学生だった俺は卒業直前に都会に出て買った)。

f:id:odd_hatch:20210617090439p:plain

 以後、順次発表されて1995年に第9章まで書かれる(高橋和巳に読んでほしかったなあ)。そして1997年、作者は87歳の高齢で没した。

f:id:odd_hatch:20210629085241p:plain  f:id:odd_hatch:20210607090057p:plain  

f:id:odd_hatch:20210521085831p:plain

 さて、プロが読んでも難解で、解説や論文、批評はあまたの数がでている。素人である俺が屋上階を重ねるほどの読みと技術はもっていないので、単にサマリーを作るくらいにするが、再読しての感想は「死霊」はそれほど難しくない。本書は「意識・革命・宇宙」をテーマにしている。そのアウトラインを押さえておけば、「虚体」をめぐる存在と非在の考察はむしろエンターテイメントとしてたのしめるはずだ。

<参考エントリー> 本人による解説

odd-hatch.hatenablog.jp


 なので、本書を読む前に、参考になりそうな本を読んでおいたほうがいい。以下に俺の読んだ本を掲げる。素人の読みなので、これ以上を読むのは必須。

西洋形而上学 ・・・ 新書や啓蒙書で存在論形而上学の歴史とだれが何を言ったかを知っておいたほうが良い。ソクラテスプラトンアリストテレスデカルト、カント、フッサールハイデガーあたり。だれのでもいいので、原典(翻訳でOK)をいくつか読んでおく。第7章「最後の審判」のために、イエス、釈迦、大雄などの教えも知っておく。

革命 ・・・ 19世紀からの共産主義とその運動史。マルクス共産党宣言」「経済学・哲学草稿」「ドイツ・イデオロギー」、レーニン「国家と革命」は必須。ナロードニキから10月革命、スターリン主義と官僚制のロシアの革命史はできるだけ細かく知っていよう。戦前の日本共産党の運動史。日本の共産主義運動史は立花隆日本共産党の研究」「中核vs革マル」(いろいろ問題あるけど手ごろなので)。革命家であること(テロやリンチへの傾斜も)は、マルロー「人間の条件」。監視社会はオーウェル1984年」、ハクスリー「すばらしい新世界

宇宙 ・・・ 第6章以降になると、1970年代以降の宇宙論素粒子論が出てくる。とりあえずアインシュタイン「物理学はいかに創られたか」岩波新書を読んで、ブルーバックスや新書を適当に10冊以上。宇宙の誕生と複数の宇宙の可能性を検討する宇宙論の知識が必須。

ドストエフスキー ・・・ 作家はドスト氏に震撼したのであって、ドスト氏の小説を読破しておくことは必要。「地下生活者の手記」「罪と罰」「悪霊」「カラマーゾフの兄弟」。最初のほうの章では、後期短編のパスティーシュのような場面が出てくるので、「ボボーク」「おとなしい女」「おかしな人間の夢」も読むべき。

ポー ・・・ 同様にポーも。できれば全編。厳選すれば、「メエルシュトレエムに呑まれて」「催眠術の啓示」「ヴァルドマァル氏の病症の真相」「アッシャー家の崩壊」「陥穿と振子」「赤死病の仮面」「早すぎた埋葬」。可能なら、詩とユリイカ

戦後文学 ・・・ 埴谷と同時代の戦後文学も重要。とくに「近代文学」の同人のもの。これは入手難か。それでもこのブログにあげた程度の大岡昌平武田泰淳野間宏椎名麟三堀田善衛の代表作は読んでおく。次世代の影響もあるので、高橋和巳大江健三郎(特に初期)は押さえておきたい。

雑学 ・・・ 第4章までは悪魔学がでてくる。あわせて西洋神秘思想にも触れておいたほうがよい。悪魔学荒俣宏澁澤龍彦種村季弘等か。埴谷雄高はオカルトや超常現象の本をよく読んでいたそうなので、押さえてくとよい。たくさん読むのは大変だから、コリン・ウィルソンの「世界不思議百科」を読めば、ほぼ基礎知識を網羅できる。俺は悪魔学には興味はなかったが、かわりに中世神秘思想を参照した。クラウス・リーゼンフーバー「西洋古代・中世哲学史」(平凡社ライブラリ)が便利。異端の考えとその対抗思想も抑えておいた。異端の考えや中世神秘思想は原典(翻訳でOK)にも触れて雰囲気をつかむとよい。たとえばマイスター・エックハルト。「序」で探偵小説的構成をとるといっているので、1920-30年代の長編探偵小説の名作と、その後のスリルとサスペンスの名作を読んで「探偵小説的構成」に親しんでおく。フィルムノワールの映画、1950年代のアクション映画も数多く見ておきたい。

 けっこう雑駁なリストになったが、以上をカバーするには400-500冊くらいは必要。可能であれば、興味に合わせて、どれかのジャンルを深く突っ込んでおくことは有益だろう。
 日本文学としては異例に長い小説。予備知識なしに飛びこんで圧倒される読書体験をしてもらいたい。俺は初読のとき、毎日10時間以上の読書時間をかけて3日で読んだものだが、部屋にこもりっきりであっても、その間のことを鮮明に思い出せるような特別な時間を過ごしたものだ。
(それはここにあげたような本書の読み取りに必要な基礎知識を10年以上かけて持っていたから。作中にでてくる言葉や観念から、基礎知識にリンクが張られ、書中には書いていない背景や情報を思い浮かべることができて、作者の意図や仕掛けなどを発見できた。それも読書の楽しみ。)

 


埴谷雄高「死霊 I」(講談社文芸文庫)→ https://amzn.to/3uJN5uE
埴谷雄高「死霊 II」(講談社文芸文庫)→ https://amzn.to/3wqn3wO
埴谷雄高「死霊 III」(講談社文芸文庫)→ https://amzn.to/49JKnDY

埴谷雄高「文学論集」(講談社)→ https://amzn.to/3UUbxUR
埴谷雄高「思想論集」(講談社)→ https://amzn.to/49DEdp0
埴谷雄高「政治論集」(講談社)→ https://amzn.to/49q5go8

 

2021/07/09 埴谷雄高「死霊 I」(講談社文芸文庫)「序」 1948年に続く