odd_hatchの読書ノート

エントリーは2200を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。

バーバラ・スィーリング「イエスのミステリー」(NHK出版)

 歴史ミステリーという分野は特殊で、作るほうとしては敷居が高いと思うが、これは成功した事例だ。しかも、歴史ミステリーとしては新しい試みをしている。
1.現在をさかのぼること約2000年昔の事件を題材にしている。創作ミステリーでは古代エジプトを舞台にしたものがあるが、史的事実を対象にしたものでは最古ではないだろうか。
2.それだけ古い事実ながらも、人口に膾炙しているということでは文句なしのテーマを選択している。
3.このミステリーは解決編だけでできているというのも、新しい試み。これは2と共通することである。では、問題編はなにかというと4つの「福音書」と「使徒行伝」。これだけ多くの人に読まれている書物もないわけであるから、問題編がないミステリーという新機軸を試みたにもかかわらず、そのことで読者からの不平や不満がでたというわけではない。日本内であれば「邪馬台国」問題などがこれまでの条件をクリアできる可能性があるが、「魏志倭人伝」の引用のない邪馬台国探しはありえないわけで、史的イエス問題だけが可能な主題であるはずだ。これは著者の慧眼だ。
4.もちろん史的イエス問題を扱うからには、最近の学問の動向にも通じていることが必要となる。とくに、第二次大戦後は「死海文書」や「ナグ・ハマディ文書」など新発見資料が相次いでいることもあり、これらの資料の反映は必須となる。著者は、この分野に造詣が深く、とくに『死海文書」を縦横無尽に使用し、深く読み込んでいることがはっきりとわかる。著者のフェアな姿勢といえる。
5.とはいえ、ミステリーらしい牽強付会な資料の読みが散見されるのは残念だ。たとえば、死海文書は紀元前2―3世紀から紀元100年ころまでのかなり広範囲な時代に書かれた文書の集成というのが一般的な見解だがすべてイエスの同時代に書かれたものであるとするとか、イエスクムラン教団の関係には疑義があるとされているにもかかわらずイエスクムラン教団に所属しかつ教団指導者の息子と断定しているところとか、上記の福音書使徒行伝は複数の資料や伝承を編集したものであるがすべて史実であると断定しているところなどである。このような個性的な読みと驚愕の新知見というのは歴史ミステリーの醍醐味といえばそうなのであるが、もうすこしアカデミズムに近寄ったところで、推理を進めてほしかったと思う。
6.とはいえ、ここに書かれたイエス伝は、個性的な解釈で異色のできだった。とりわけ、ユダの裏切り―逮捕―ペテロの3度の否認―磔刑―復活にいたる一連の新解釈は非常に面白かった。これはぜひとも問題編を読んだ上で、この本の解釈を楽しんでほしいと思う。たとえばユダの死のあり様はマルコによる福音書(縊死)と使徒行伝(墜落死)では異なるのだが、ここではどちらも事実であるとする卓越した解釈を見せた。このあたりの推理能力は面白い。
7.しかし、この本のしかけた最大のトリックは、本書がエンターテイメントではなく、宗教書あるいは歴史書として販売されていることだろう。この趣向を実現できた作家はいない。あのウンベルト・エーコでさえできなかったことだ。

<追記 2014/6/23>
 「イエスのミステリー」への反論はこちらを参照してください。
スィーリング『イエスのミステリー』のミステリー

<さらに追記 2019/7/15>
 イエスをきちんと知るなら、こちらで。
2013/02/25 小田垣雅也「キリスト教の歴史」(講談社学術文庫)
2015/01/19 森安達也「近代国家とキリスト教」(平凡社ライブラリ)
2015/01/05 荒井献「イエス・キリスト 上」(講談社学術文庫)
2015/01/06 荒井献「イエス・キリスト 下」(講談社学術文庫)
2015/01/08 聖書「新約聖書外伝」(講談社文芸文庫)
2015/01/15 弓削達「世界の歴史05 ローマ帝国とキリスト教」(河出文庫)
2015/01/14 ケン・スミス「誰も教えてくれない聖書の読み方」(晶文社)